火曜日, 12月 05, 2006

みなさんそれほどヒマじゃない

個人の情報の発信についてなんとなく思ったこと(散文)。

isologuさんのこちらのエントリを読んで全く同感と思った。

情報発信量が飽和するとノイズにしからならないが、発信量を0にして
しまうと見返りが0となることが確定してしまうので発信せざるを得ない。

個人の意見がたくさん集約されると正しい意見になっていく可能性は
高くなる。でも、そこに至るまでには極端に間違った意見の方に
オーバーシュートしてしまうこともある。が、恐らくオーバーシュート
している間は誰もがそれが間違っているとは思わないので、多数の
意見に基づいていることは何の正しさの保証にもならない。

Web2.0的コミュニティは性善説に基づいたコミュニティ参加行動
のもとに成り立っていることが多いが、ではいわゆる「炎上」は
性悪説的なWeb2.0的活動なのだろうか。

パソ通時代のNiftyのフォーラムは情報のクオリティが
高かったと言っている人が多い気がする。情報の交換場所は
一定のトランザクション量が出てくると急速に価値が高まる気がする。
しかし、情報の発信コストが下がりすぎると、「ゴミ」みたいな
クオリティのコンテンツが爆発的に増加して、良質なコンテンツを
効率的に集めることが難しくなる。それをなんとかするのが
Web2.0的な技術だったりするわけだが、単に一つの交換場所から
個々のBlogなどへと散らばったコンテンツを集めるだけでは、
収集コストが高くなってしまっただけとも言える?

じゃあ、価値を生み出すのはヒトとヒトの意見の交わりなのだろうか?
Blogのコメントやトラックバックがそれにあたる?掲示板は
まさにそれにあたるが、扱いはWeb1.0だ。WikiやBlogの
エントリ自体は0からの蓄積と上書きの連続であり、意見の交錯から
新しい価値が生み出されているという感じがしない。部分部分の
分担の集積が全体を作っているというのではない、本当の価値観の
「コラボ」、「合作」がWebから生まれる姿というのはどのような
ものなのだろうか?